(くがよしこ)
久我 美子(くが よしこ、1931年1月21日 - 2024年6月9日)は、日本の女優。身長153cm。本名:小野田 美子(おのだ はるこ)、旧姓:久我(こが)。所属芸能事務所はワタナベエンターテインメント。
侯爵、貴族院議員久我通顕の長女。母は日本橋区薬研堀町のべっ甲商、永峰セルロイド工業社長篠崎宗太郞長女與志江。久我家は村上天皇まで遡る村上源氏の流れを汲む清華家の家格であり、華族の家柄である。東京市(現・東京都新宿区)牛込に生まれる。1946年、 女子学習院(女学校課程)在学中、第一期東宝ニューフェイスに合格。同期に三船敏郎・堀雄二・伊豆肇・若山セツ子・堺左千夫らがいる。1947年、女子学習院を中退し、『四つの恋の物語』で映画デビューを果たす。
1950年の映画『また逢う日まで』では、日本映画ではタブーだった接吻のシーンを窓硝子ごしのクロースアップで演じた。
1954年、木下惠介の『女の園』の撮影中、久我と岸惠子は「女だけのプロダクションをつくろう」と意気投合した。「でも二人だけじゃ寂しいわね」と久我が言うと、岸は「有馬稲子っていう威勢のいい人がいるじゃない」と提案した。同年4月16日、久我、有馬、岸で「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立した。
1957年 原田康子作の70万部を記録した小説『挽歌』をもとにした映画でヒロイン兵藤怜子を演じ大ヒットする。
1961年、俳優と結婚する気はなかったが、平田昭彦からの猛烈な求愛の末に結婚した。
1969年より約1年間、『3時のあなた』の司会を務めるなど、1970年代以降はテレビ・舞台を中心に活躍する。
1989年の映画『ゴジラvsビオランテ』では亡き夫・平田の遺志を受け継いで女性官房長官役で出演。当時史上初の女性官房長官である森山眞弓とシンクロしたことが報道された。
2004年、義姉にあたる女優・三ツ矢歌子(久我の方が年上)死去の時に、久々に公の場に姿を見せた。
2024年6月9日、誤嚥性肺炎のため死去。93歳没。
撮影所では本名の「はるこちゃん」と呼ばれた。稲垣浩は久我のファンで、いつか折を見て『風林火山』映画化が実現した際に「由布姫」役にと考えて1957年の映画『柳生武芸帳』で竜造寺の姫君役に起用したが、風林火山の映画化は12年後(1969年)になり、稲垣は「私の夢は果たせなかった」と悔やんでいる。
稲垣は久我について、「日本が戦争に負けたおかげで、侯爵の姫君が女優となったのだが、もし戦争に勝っていれば美子さんは尼寺の人となっていたかもしれない、そう思うと敗戦は久我家にとって幸福とは言えなかっただろうが、美子さんにとっては自由に生きる道がひらかれたと言っていいのかもしれない」とし、黒澤映画での「はる子ちゃん」は、「まる顔で、はつらつとしていた」、「太い眉毛、八重歯、特徴のある声帯、どれもこれもそれまでの映画女優になかった新鮮さがあった」と評している。
稲垣はロケ先で久我とマージャンをしてよく負けたが、久我に「先生、お願い、上らせて」と言われると「魔術にかかったように彼女に振り込んでしまった」「少しも口惜しいと思わなかった、たぶん、(久我に)いかれていたのだろう」と語っている。稲垣は藤本真澄の頼みで、久我と平田昭彦の結婚媒酌人を務めている。両者の馴れ初めは稲垣の『大坂城物語』(東宝、1961年)で共演が契機で、以来半年のあいだ、映画界にも週刊誌にも気づかれなかった二人の巧妙な恋愛は、さすが東大出身と元侯爵令嬢だけあると噂された。
若き日より家柄・容姿のみならず、演技面も芯の通った内面と気品が見るものにも伝わる確かな実力があった。日本映画史を代表する数々の名監督達も、こぞって彼女を起用した(下記参照)。平田との結婚後も、そして死別後も、長年にわたって女優活動を続けたが、2000年公開の映画『川の流れのように』以降はほとんど活動休止状態となっていた。
彼女が公卿華族育ちの名家出身ながら芸能界を志した理由は、祖父の久我常通が第36代当主だった大正時代から続く、久我侯爵家の経済状態の悪化を打開するためであった。当時の久我家は世間知らずの祖父と父親が、高利貸しに金を借りて慣れぬ事業に手を出して失敗し家屋敷を押さえられた上に、さらにその窮状を詐欺グループに付け込まれ、1932年、自邸内に事務所を置かせた欠食児童同情協会の寄付金詐欺事件で新聞沙汰になり、警視庁から厳しい取り調べを受けるなど、経済的に追い詰められていた。詐欺事件以降も久我侯爵家の生活苦は変わらず、常通は、破綻した「東日本炭砿」の取締役を一時務めていたほか、運送・倉庫会社の設立にも関わった。常通の事業失敗により、伯母(常通長女)の三千子は当時70歳の北海道の高利貸し・五十嵐佐市に嫁いだ。常通の弟で男爵久我通保の長男・久我通政も、1933年、家出後の生活苦から詐欺まがいの行為を行い警察から取り調べを受けたことで翌年廃嫡された。彼の弟で家督を継いだ次男の通武(戦後は農林省キャリア官僚として活躍)も共産思想に染まり、1934年に多くの華族子弟と共に宗秩寮から懲戒を受けた。このように戦前から久我家一族は分家も含め経済苦等による醜聞に次々と見舞われており、美子が戦後に映画界にデビューする前からすでに実家筋の評判は芳しくなかった。
美子の東宝ニューフェイスへの応募は、上記の経済的に困窮した家庭状況に加え、戦後の華族制度廃止でますます実家の生活が悪化することを憂慮し、家計を助けるため職につきたい一心からであったが、実家からは久我家の「体面を汚す」と猛反対された。結局美子が「久我(こが)」姓を名乗らないことと、住民票を親類宅に移すことを条件に芸能活動を許された。そのために漢字は同じでも本名「こが はるこ」が芸名「くが よしこ」と異なる。
久我家は、村上天皇の皇子具平親王の子源師房を祖とする平安朝の前期(10世紀)から続く公家の名門である。師房は当時の朝廷が藤原氏一色だった時代に、他の姓にもかかわらずに、右大臣、太政大臣になった人物である。以後は、戦国時代の晴通(藤原尚通は実父)は通言の養子として迎え、跡を継がせている。公家の家格には、第一等の「摂家」から、順に「清華家」、「大臣家」、「羽林家」、「名家」などがあり、久我家は、第二等に位する「清華家」の家格が与えられており、「清華家」の九家の中で筆頭に上げられている。
太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品