(みはらようこ)
三原 葉子(みはら ようこ、1933年1月10日 - 2013年7月1日)は、日本の女優である。現役当時の公称サイズは身長162cm, 体重52kgであった。本名は藤原 正子(ふじわら まさこ)。
1933年(昭和8年)1月10日、岩手県盛岡市鉈屋町に生まれる。生家は毛皮商で、盛岡市立盛岡第一高等女学校(現在の盛岡市立高等学校)を卒業する。
1951年(昭和26年)10月、新東宝に「第一期スターレット」として入社する。翌1952年(昭和27年)、『風雲七化け峠』(並木鏡太郎監督)で銀幕デビュー。1957年(昭和32年)、石井輝男監督『肉体女優殺し 五人の犯罪者』でストリッパー役に起用され、その肉体美と演技で人気を博す。1958年(昭和33年)、『人喰海女』で初主演。以後、新東宝のセクシー路線のトップスターとしてなった。
1961年(昭和36年)10月、新東宝が倒産すると第一協団に所属。以降はフリーランスとして東映を中心に活躍した。映画の出演は遊びで、当時の本業は不動産で大儲けしていたといわれる。墓所は盛岡市東顕寺。
新東宝では、大蔵貢社長の企画第一主義に則ったエロ・グロ路線の中心的ヴァンプ女優として活躍した。
昭和27年の『風雲七化け峠』(並木鏡太郎監督)でデビュー。この作品では全裸で川に入る場面があった。共演した嵐寛寿郎は、「ほんまに切れるような岩清水に裸で入りよったんです。人が来てアッと立ち上がる、胸一杯に乳が隠しきれません。ボロッとこぼれかかった、本人それどころやない、もう血の気がひいとる。よう演りました三原葉子」とこのときの様子を語っている。このデビュー映画はヒットとなり、日本の女優には珍しいグラマーとして話題となる。
昭和35年の『女王蜂と大学の竜』(石井輝男監督)で、三原と共演した嵐寛寿郎によると、「ちょっとふとめや、グラマーがゆきすぎてデブ子になってしもうた、それが悩みの種でサラダしか食わん」とのことで、グラマー女優として知られた裏にも苦労があったようである。
劇中では気の強い役だったが、これも嵐寛寿郎によると「役柄とはまるで逆でやさしい、よう気のつく子」だったそうで、真夏の撮影だったこの作品で、大スターの嵐のそばにつきっきりで汗をかくとさっと拭いてくれたという。「自分の出番が終わってもまるで実の娘のように世話を焼いてくれる、これにも惚れました」と語っている。