(たぐちゆかり)
田口 ゆかり(たぐち ゆかり、1959年3月18日 - )は、日本のAV女優。1980年代前半から半ばにかけての出演作から、裏ビデオの女王とも裏本の女王とも呼ばれた。
80年代半ばまでに出演した裏ビデオが6、7本、ビニ本は100冊以上、裏本は約20冊に出演、それらの作品は軒並み人気作となり、特に注目されたのは製作費のかかった海外輸出向けの時代劇風のハードコアのビデオ作品で、それらが無修正のまま国内に流通した。中森明菜風の容姿と顔射、精飲、中出し、アナルなどのハードなプレイをこなした。
ポルノ映画、AV、ストリップ、ノーパン喫茶、のぞき部屋、ソープランドなどの性風俗にも従事したが、女優としては自己管理が甘く、連絡がとれないなどで製作者サイドを困らせたことも多々あったという。
ビニ本コレクターとして知られていた谷村新司が田口のファンで、舞台に復帰した時に匿名で花束を贈ったことをTBSラジオ、『たまむすび』で明かした。そこで谷村は田口のことを「青春をくれた特別な人。」と語っている。
東京都大田区羽田の海老取川の船上生活者の家庭に生まれる。物心つく前に母親が家出、3歳の時、父が事故死、生活保護を受けながら祖母と少女時代を過ごす。14歳でキャバレーで働き、学校にもほとんど行かず不良の仲間入りをしてシンナー、売春などで中学三年の時、群馬県榛名の女子少年院に一年半入る。院内で中学の卒業資格を取る。
1980年8月にサラリーマンと結婚をして、世田谷でパートをしながら主婦としての生活を送っていたが、昔の仲間からビニ本のモデルをやらないかと誘われ出演、たちまち人気が出る。その後、AV、裏ビデオ、裏本、ノーパン喫茶、のぞき部屋等で働き始める。当時、裏本の帝王といわれた村西とおるも田口ゆかりを撮影しており、そのモデル意識に脱帽していた。この頃、ミスヌードコンテストで審査員特別賞を受賞している。
1981年5月、ビニ本の『セーラー服の聖女』に出演したため碑文谷署からわいせつ図画販売の幇助の容疑で出頭命令を受ける。
1983年、映画『華魁』(1983年、富士映画)の準主役に抜擢されるが、ビニ本、裏本に多数出演したことに対して神奈川県警が動き始めたとの理由で降板させられる。表向きの理由は撮影前に海外へ遊びに行き、陽に焼きすぎたので役柄にふさわしくないからということであった。その年の3月、覚せい剤不法所持容疑で武蔵野警察署に逮捕され20日間拘留されるが、後に容疑が晴れる。
1984年12月、金使いの粗さから借金が膨らみ、友人に誘われて佐賀県藤津郡の嬉野温泉のソープランドで働きながら地元の観光秘宝館でサインなどを売ったりして働き始める。九州の裏ビデオ組織の作った『旅愁』、『黒い菊』に出演したことが原因でわいせつ図画販売で指名手配され、翌年6月、病院で点滴した跡を覚せい剤と疑われたため、違うことを自ら証明するべく嬉野署へ出向いたところを逮捕され、22日間拘留されたが覚せい剤での嫌疑は晴らした。
その後、愛染恭子と同じ芸能事務所、アクトレスに所属し、百五十万とも二百万ともいわれた借金の一部は同事務所が肩代わりする。『11PM』(日本テレビ)等の番組でも特集が組まれるなどして徐々に活動も再開し、事件4カ月後には、田口ゆかり劇団をつくって大阪のストリップ劇場にて完全復帰する。
1985年には離婚するが翌年再婚するなど離婚再婚を繰り返している。
1989年5月、千葉県内の民家に忍び込み、現金1,250円を盗んだとして窃盗容疑で逮捕され、1992年7月にも長野県の戸倉上山田温泉で、ストリッパーとして働いていたときに、覚醒剤所持で逮捕された。その後浅草ロック座でストリッパーとして出演した。
2000年頃には浅草や長野のロック座でストリップをしたり、長野の温泉街で芸者などをしながら熟女系のAVにも出演している。
2007年、大蔵映画が同社の80年代作品にスポットを当て、東京・オークラ劇場で上映する企画の第3弾として彼女が主演した『田口ゆかりの裏本番恥技』が公開された。
他