(すずきさちこ)
鈴木 早智子(すずき さちこ、1969年2月22日 - )は、日本の歌手、タレント、女優。1988年から1996年まで活動した、相田翔子とのアイドルデュオ・Winkのメンバー。本名同じ。別名、東 智子、Miyoko.A。愛称、さっちん。東京都出身。
1987年、雑誌『UP TO BOY』主催のミス・アップ・コンテストで第7代グランプリとなり、1988年、同じくミス・アップ第9代グランプリである相田翔子と、アイドルデュオ・Winkを結成。「愛が止まらない 〜Turn it into love〜」や「淋しい熱帯魚」などのヒット曲により、1989年にはスターダムに上りつめた。1996年、Winkは活動を停止。その後、Winkとしては、1998年、1999年、2008年、2018年と、デュオ結成から10年ごと(1999年を除く)に活動を一時再開しており、テレビ番組等で歌唱している。
Wink活動停止後は、歌手であることを本懐としつつも、主にタレントや女優として芸能活動を継続。
歌手としては、1998年にシングル「INNOCENT SKY〜悲しみも届かないあの空の向こうへ〜」を、また、2003年にアルバム『零〜re-generation〜』を発売している。
2009年に発売したDVD『September Shock』で「AV」出演などと報じられたり、2010年に週刊誌によって舞台俳優と不倫していたとされ、一旦、芸能活動の自粛をしたりするなど、スキャンダラスな動向を示した時期もあった。
2011年から2012年、および、2013年から2015年まで一時休業したが、芸能活動を再開している。
1969年2月22日23時8分、広告関係の仕事をする父 と、専業主婦の母 のもとに生まれる。出生地を愛知県名古屋市とする文献もあるが、鈴木の自著では、出生地は東京都目黒区で、幼稚園の年長組に上がる頃に埼玉県草加市へ転居、1989年初頭におけるWinkの「愛が止まらない」のヒット後に、東京で単身生活を始めたとする。3兄弟の長女(4歳下に弟、8歳下に妹)。小学2年生の時から歌手に憧れていた。
中学生の時にアニメソングのオーディションに合格するも辞退。
1984年、東京都内の高校へ進学して間もなく歌手を目指して休学し、同年内に一時的に都内港区の青山に所在する芸能事務所に所属。
1985年頃、高校を退学し、喫茶店や、建設会社の事務などのアルバイトの傍ら、都内港区の乃木坂にあった笠井幹男のボーカル・スクールで、レッスンを受けるようになる。
1986年7月、草加市の西隣である埼玉県川口市の土手において、数千人の聴衆を前にし、アマチュアバンドであるフォーエバーのボーカルとして、オリジナル曲「おじちゃんヨイショ」を歌唱。
同年8月17日に新宿アルタ内のスタジオアルタで本選が開催された 第1回「ロッテ CMアイドルはキミだ!」コンテストに、最終ノミネート者20名の1人として出場するも、グランプリの座を獲たのは橘理佐(のちの立花理佐)であった。
この年の11月2日、成城大学の学園祭において開催された、青年誌『UP TO BOY』(ワニブックス)の「ミス UP FESTIVAL in SEIJO UNIV.」に、東 智子の名を以ってエントリーし、ミス・アップ第7代グランプリを受賞。
1987年1月23日発売の『UP TO BOY』同年3月号のグラビアに、名を本名の鈴木早智子に改めて登場し、3月23日発売の5月号で、表紙と巻頭グラビアを飾る。この年、同誌の鈴木のグラビアを目にしたアップライトミュージック社長・森裕平が、芸能事務所に属していなかった鈴木を、設立したばかりの自社に所属させた。しかしながら、同社における鈴木の主な仕事は当初、電話番やスケジュール管理などの雑務であり、翌1988年1月に端役としてテレビドラマに出演するなどした以外、Winkを結成するまで目立った芸能活動は無かった。
1988年、ミス・アップ第9代グランプリである 相田翔子とWinkを結成し、4月27日のシングル「Sugar Baby Love」発売を以って歌手デビュー。Winkは、翌1989年には、年間62.95万枚を売り上げた「愛が止まらない」や、同じく54.873万枚を売り上げた「淋しい熱帯魚」などのヒット曲に恵まれ、この年の12月31日には、『第31回日本レコード大賞』での日本レコード大賞受賞 や『第40回NHK紅白歌合戦』への出場 を果たすなど、一躍スターダムに上りつめる。
Winkの各アルバムには、『At Heel Diamonds』(1988年12月1日発売)を除き鈴木のソロ曲が1曲または2曲収録されており、クール&ザ・ギャングのカバーや来生たかおの提供曲などを歌っているが、その他、鈴木単独としては、以下のような動向が見られた。
1990年12月22日公開の映画『きんぴら』に単独出演するが、この時期にはそれ以外のソロでの活動は行なっていない。
1991年11月25日発売のアルバム『Sapphire』以降、Winkの活動期間中には、Miyoko.A名義で3曲、鈴木早智子名義で2曲の作詞を手掛けた。
1992年3月25日、Wink時代唯一のソロ・アルバム『Mode』を発売。この年に特に集中的に、テレビドラマの脇役やバラエティ番組のゲストなどとして、単独でテレビ番組に出演している。
1993年10月20日より翌年9月7日までの1年間、『志村けんはいかがでしょう』(フジテレビ系)のコントにレギュラー出演。テレビドラマ以外ではWink時代唯一のテレビ番組単独レギュラー出演となった。
1994年11月、単身渡米し、およそ2週間、ニューヨークでダンスのレッスンやボイストレーニングを受ける。
1995年3月18日より26日まで公演された舞台『怪盗チェリーのレストラン』で、主演としてチェリー役を演じ、初めて舞台に出演。
この年、日本ボウリング場協会のCM「ボウリング マジック!!」に起用され、初のCM単独出演を果たしている。
1996年2月25日、Wink時代唯一のソロ・シングル「La Gioconda」を発売。
この年3月5日放送の『江戸の用心棒II』(日本テレビ系)において時代劇に初出演するが、2月下旬乃至3月初頭に京都の太秦でその撮影を終え、帰京した直後、所属事務所の社長より鈴木一人が社長室へ呼び出され、突如としてWinkの活動停止を宣告された。
同月31日を以ってWinkは活動を停止。鈴木は、2010年に上梓した自叙伝『負けじ魂』で、「今もって活動停止の理由や原因は分かりません。聞かされてもいないし、知らされてもいない。」と述べている。
その後の鈴木は、自らが専ら歌手であるという認識を保ち続けてゆくが、下記の通り、主にタレントや女優として芸能活動を継続することとなる。
Winkの活動停止後は、1996年は、Winkの所属していたP-ARTISTSが改名したものと鈴木がしているマンリープロモーション、1997年頃から尾木エージェンシー、次いで1998年頃からネバーランドに所属。なお、これら3事務所は、住所が同じであり、また尾木エージェンシーとネバーランドの電話番号が同じで、同一性がある。
Wink活動停止後にレコード会社であるポリスターとの契約が終了したため新曲が出せなくなり、暫くは、営業でWinkの楽曲を歌唱するというかたちでの歌手活動はあったものの、映画や舞台、テレビ番組への出演のほか、写真集の発売など、タレントや女優としての活動が芸能活動の中心となっていた。そのさなかである1998年、テレビ東京のリアリティ番組『ASAYAN』の企画「再起に賭ける芸能人オーディション」に、5月31日放送分より出演する。その企画内容は、外資系企業CMタイアップ曲の小室哲哉プロデュース権を賭けて、鈴木を含む「再起に賭ける芸能人」女性たちがニューヨークで共同生活をしながらレッスンを行なうというものであったが、鈴木は、周囲と同調せずに共同生活を拒否したり、他の企画参加者が易々とダンスレッスンをこなす中でレッスンを抜け出し、うまく踊れないこと等につき涙ながらに話したりするなどし、その後、レコード会社から打診を受けたという理由で無断帰国、この企画を離脱しつつも、 企画の前提であった外資系企業のCMタイアップが立ち消えとなった後に、新曲「INNOCENT SKY〜悲しみも届かないあの空の向こうへ〜」を披露する模様などが放送されている。鈴木自身は後に、この番組は、当初より台本があったのみならず、鈴木の与り知らないところで彼女を「悪役」として仕立てる編集がなされていたことなどを述べ、その不当性を述懐した。
同年10月28日、バンダイ・ミュージックエンタテインメントよりWink活動停止後初のソロ・シングル「INNOCENT SKY〜悲しみも届かないあの空の向こうへ〜」を発売。本作の表題曲は『64マリオスタジアム』(テレビ東京系)および『ワイン娘恋物語』(同前)両番組のエンディング・テーマ曲として用いられ、カップリング曲の「PEACE OF MY LIFE」は「バーコード対戦 バーディガン」(タムソフト)CMイメージソングに起用された。また、この年、第1回インターネット歌手ナビ音楽祭で「歌手ナビヒット賞」を受賞している。
この1998年という年はWink結成10周年にあたるが、12月29日放送の『祝!日本レコード大賞40周年記念スペシャル』(TBS系)において、相田翔子とともにWinkとして出演し、「淋しい熱帯魚」を歌唱した。また、翌1999年12月30日放送の『超える!テレビ』(TBS系)においてもWinkとして出演、「愛が止まらない」と「淋しい熱帯魚」を歌唱している。
2000年5月末、バンダイ・ミュージックエンタテインメントが解散したが、その後、ネバーランド在籍中においては、新譜を出すことはなかった。
同年6月、深夜1時過ぎに、首都高速4号線において乗用車を運転中、逆走してきた自動車と衝突、鈴木の乗用していた乗用車は大破し、彼女自身はむち打ち症で3週間ほど入院したが、後遺症は無く、その後もテレビタレントや舞台女優としての仕事を継続する。
当該時期においては、全体的に、タレントや女優としての活動が主な芸能活動となったが、本懐である歌手としては、1998年にシングルを発売できたものの、鈴木にとって不本意な結果となった『ASAYAN』の出演と、関連性が強いものになってしまった。
2002年、オレガに所属。
2003年12月10日、インディーズ・レーベルであるWhat's Up? Groupより、Wink活動停止後初のソロ・アルバム『零〜re-generation〜』を発売。これを記念し、翌2004年の2月28日と5月28日に、「零〜re-generation〜TOUR2004」と題して、やはりWink活動停止後初のライブツアーを行なっている。
2005年の初めにはアルバム作成の意向を示してはいたものの、その後、オレガ在籍中に新譜を出すことはなかった。一方、同年は、歌手として以外の芸能活動において、該事務所在籍期における、従来見られなかった動向が見られる。2月11日放送のテレビドラマ『特命係長 只野仁』(テレビ朝日系)ではベッドシーンを演じ、同番組が最高視聴率を更新するほどの注目を集めたが、3月30日にオレガ在籍期唯一の写真集『Voice』を発売し、セミヌードを披露して、「最近では、テレビ朝日系「特命係長 只野仁」でベッドシーンにも挑戦するなど、色気にますます磨きがかかっており」と評される動向を示した。9月22日にDVD『Voice』も発売。その他、9月10日公開の映画『逆鱗組七人衆』に出演した。同じく2005年から、パチンコ・パチスロに関わる、地方局のテレビ番組出演や営業も目につくようになる。
2006年からは舞台に立つようになり、この年の3月7日から17日まで公演された『眠れぬ夜の電波ハイジャック』や、翌2007年7月29日から9月1日まで公演された『ちぎれた雲はどこへ行く』に出演した。
なお、鈴木は、自身の母が癌で本格的に入院するようになって以降、仕事から看病へと軸足を移し、殊に、父・妹・弟らと共に、草加市の実家に泊りきりで自宅看護を始めた2007年3月 から、母が享年64で死去する7月23日 までのおよそ4ヶ月間は、所属事務所の手違いもあって降板できなかった舞台の稽古以外、仕事を入れなかったと述べている。鈴木の母がいつから本格的に入院したのかは判然としないものの、このように、病床の母に尽すべく、仕事をセーブしていた時期もあった。
2008年4月に、エグゼに移籍したとも言われる。
この年はWink結成20周年にあたるが、12月30日、『第50回日本レコード大賞』(TBS系)に相田翔子と2人でWinkとしてゲスト出演し、「淋しい熱帯魚」を歌唱した。
2009年3月31日、薬物服用により救急搬送されたと報じられ、自殺未遂かなどと憶測を呼んだが、同日中に会見を開き、日頃の睡眠不足によって安定剤を服用した旨など、その経緯を説明。
これより先、同年1月23日に、DVD『NATURAL 〜Respect my life〜』を発売し、セミヌード映像を披露したが、更に9月1日にはDVD『September Shock』を発売する。本作品は、その発売前に、メディアから「AV」あるいは「ソフトAV」などとセンセーショナルに報じられた。しかしながら、本DVDの発売元であるMUTEKIは、当該作品を「AV」であるとは明言しておらず、また鈴木自身は、この出演作品が「AV」ではない旨を述べている。それから間もなく、9月25日にはヌード写真集『one track memories』を、10月25日には同名のDVDも発売。
その後、この年には、精力剤である、宝仙堂の「凄十(すごじゅう)」の広告に起用され、「完全に清純派からセクシー路線に舵を切った」とも評された。
2010年2月20日公開の映画『宿命のジオード』に主役である三輪聖子役で出演したが、6月17日発売の『週刊文春』(文藝春秋)により、同映画やDVD『September Shock』で共演した舞台俳優と、4年にわたって不倫関係にあったと報じられる。この影響により、同月20日に自身のブログで当面の芸能活動自粛を発表。自粛中の7月から9月の間に初の自叙伝『負けじ魂』を執筆し、11月6日に出版して、翌日、TSUTAYA TOKYO 六本木店で行なった著書発売記念イベント で、不倫の否定と芸能活動復帰の発表を行なった。
復帰後は、2011年の前半まで若干のテレビ番組に出演。また、serial TV dramaが同年3月2日に発売する、Winkのカバー曲「愛が止まらない -Turn It Into Love-」(ソニー・ミュージックエンタテインメント)のミュージック・ビデオに出演し、2月12日には、同グループの渋谷クアトロにおけるライブにゲスト参加している。
その後、およそ一年の空白期間を経て、2012年半ば頃に地方での営業などのかたちで活動を再開。
2013年1月より、かねて親交のあった 永福真子が経営するセンス・プロダクションに所属。
この年、在京キー局のテレビ番組2本に出演するなどしたが、その後、芸能活動が暫く途絶する。
2016年5月15日、活動を再開するが、復帰後のおよそ1年間はイベントへの出演にとどまった。
2017年8月12日放送の『心霊呪殺 死返し編』(CSエンタメ〜テレ☆シネドラバラエティ)に出演、8年ぶりのテレビドラマ出演を果たす。
2018年頃から芸能事務所の所属動向が不明瞭になる。
同年6月13日から17日まで公演された舞台『あいたま』に、声のみではあるが春巻梅役で出演。
この年はWink結成30周年にあたるが、8月18日放送の『思い出のメロディー』(NHK総合)において十年ぶりにWinkを一時再開し、「淋しい熱帯魚」と「愛が止まらない」を歌唱。そして10月16日には、『Special To Me』と題したWinkのトーク&ミニライブ・イベントを、渋谷のマウントレーニアホールにおいて行なう。更に12月30日には、やはりWinkとして『第60回日本レコード大賞』(TBS系)に出演し、「淋しい熱帯魚」を歌唱した。
この時のWinkの一時再開は、前年から以下のような経過を経て実現している。2017年6月7日、相田翔子が自らのブログに、プライベートで鈴木とWink結成29周年を祝ったことを写真付きで記したが、同月29日には、テレビ番組『ノンストップ!』(フジテレビ系)で、Wink復活について鈴木と話し合っていることを語り、7月6日の『ORICON NEWS』の記事では、鈴木も同趣旨のことを述べた。8月21日になると、『サンケイスポーツ』によってWinkが2018年4月に再始動すると報じられたが、同日、これを目にした相田は、自身のブログにおいて驚く様子を記しつつも、特に否定はしていない。その報道から間もなく、9月5日に、鈴木が前所属事務所の社長に未払い給与金の支払いを求めているという件が『女性自身』により「泥沼金銭トラブル」と形容されて報じられる。この報酬未払いについては、鈴木がこの前所属事務所を提訴して2020年3月に勝訴することとなるが、『女性自身』の報道直後の時期には、事の真偽に拘わらず「金銭トラブル」が報じられること自体イメージダウンを招きかねず、この件がWinkの動きに影響を与えうるという見方も出され、2018年3月7日には、相田がWinkの再始動を一旦は完全に否定するに至っている。しかしながら、Winkのデビュー日である4月27日には、鈴木と相田が二人で出演するスペシャル・トークイベント『Special To Me』を、10月16日に開催することが告知された。それから3ヶ月ほど経った7月29日、都内のライブ・レストランであるCOTTON CLUBで行なわれた相田の30thアニバーサリーコンサート「This Is My Love V」に、シークレット企画として鈴木が登場し、相田とともに「淋しい熱帯魚」を披露。『思い出のメロディー』でのWinkの復活が報じられたのは、その6日後、8月4日のことであった。
同年においては鈴木単独での歌手としての活動も見られ、11月7日に上野恩賜公園野外ステージで行なわれた、レンベル・キャピタル主催の第1回震災復興支援チャリティーイベントに出演している。
2019年10月16日時点において、TOfficeが自社の公式サイトで鈴木を所属タレントとしている。その在籍開始の日時は判然としない。
2020年2月、TOfficeが自社の公式サイトより鈴木の記載を削除したが、これに代わり、縁劇人の公式サイトが鈴木の「MANAGEMENT」を公示するようになった。その移籍の日時は判然としない。
身長157cm。靴のサイズ23.0cm。血液型A型。
Wink時代の初期に、好きな花が何か言及する、あるいはされることがあったが、相田翔子の場合、桐、梅、スターチス など、変化があったのに対し、鈴木の場合は一貫して、かすみ草であった。1988年のWinkのデビューの際には、所属事務所から贈られた花束にこの花が束ねられていたことを喜んでおり、1990年においては、かすみ草を購入して自室をコーディネートしている旨を語っている。
鈴木はこの花についてこのように述べていた。
鈴木が2016年に、「歌は私の原点。やめることはありません。いまでもカラオケに行くと6、7時間は歌っちゃいます」と話している通り、カラオケは、鈴木の歌手としてのアイデンティティと密接に関わる、幼少期からの趣味である。
小学2年生の時(1976年~1977年)に、テレビでピンク・レディーのデビュー曲「ペッパー警部」(1976年)を見た時から歌手に憧れを抱くようになるが、小学6年生(1980年~1981年)頃には、お年玉をすべて歌にまつわるものに使うようになって、8トラックのカラオケセットを購入したといい、「そこから私の長いカラオケ人生が始まりましたね。」と鈴木は語る。
少女時代において、ピンク・レディーの次に好きになった歌手は松田聖子であったが、当時はポップスのカラオケが少なかったため、八代亜紀の「雨の慕情」(1980年)や、川中美幸の「ふたり酒」(1980年)、美空ひばりの「おまえに惚れた」(1980年)、五輪真弓の「恋人よ」(1980年)などを歌っていたという。Wink時代初期にも、テレビの音楽番組において、カラオケで演歌を歌っていることを述べ、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」(1977年)の歌唱を披露したこともあった。
なお、やはりWink時代の初期において、鈴木のカラオケ・カセットの所有数が350本、1,500曲分とされていたが、カラオケのレパートリー数が1,500曲ともされ、特に後者については、Winkの活動停止後にも暫く言及されることがあった。しかし、鈴木はのちに、そのレパートリー数に関しては、把握していなかったことを打ち明けている。
鈴木は、Wink時代の最初期から風邪などでダウンすることがあり、1989年の初頭に、「デビューしてからホント急に体が弱くなっちゃって……」と語ったことがあるが、その後、1989年から翌1990年にかけての、Winkの最盛期で多忙を極めた時期には、以下のように病床に臥している。
まず、1989年5月29日に、咽頭炎で生放送番組の『歌のトップテン』(日本テレビ系)を欠場。
そのおよそ半年後、11月9日生放送の『音楽派Together』(TBS系)を急性胃炎により欠場。
翌12月にも腹痛でダウン。
『第31回日本レコード大賞』と『第40回NHK紅白歌合戦』を前日に乗り切った1990年の元日 には、ストレス性の急性胃腸炎で倒れ、入院することとなり、1月8日に『歌のトップテン』を欠場。また、その翌々日である10日に公演予定だった、静岡県の磐田市民文化会館における「Shining Star Concert」 が、同月22日に開催されることとなり、この公演が行なわれた日に生放送された『歌のトップテン』においては、コンサートを終えたWinkが同地から中継で出演している。
そして同年7月に急性肝炎で自宅療養を余儀なくされ、同月4日生放送の『夜のヒットスタジオSUPER』(フジテレビ系)や、15日放送の『スーパーJOCKEY』(日本テレビ系)、25日放送の『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(フジテレビ系)を欠場した。これに加え、同じ月の14日から開催されたコンサート・ツアー「Especially For You II」は、暫く相田翔子が一人で行なうことになり、鈴木は同月26日の川崎公演から出演している。なお、この時の病臥に関し、週刊誌において、倒れた10日後にスタッフと共に飲酒していたと報じられたことがあるが、後年、これについて吉田豪が鈴木へのインタビュー中に言及した際には、彼女は、飲酒をしないためそれはありえない旨を語っている。
その他、左側の腎臓が生まれつき弱く、腎結石で血尿になったこともあるという。
これらによって、Wink時代には、鈴木に「病弱」というイメージがつくこととなったが、彼女自身が語るところによれば、Wink結成前には病弱ということはなく、「精神的なものが左右した」ものであった。その後、ヒット曲が少なくなってきた頃からは、余裕を持って歌を歌えることにより、やっと仕事が楽しめるようになったという。
なお、相田翔子にも「病弱」イメージが付されたことがあり、週刊誌の記事で「病弱アイドル」と形容されたこともある。
病臥という点では、上記以外にも、1989年3月23日収録の『がんばれドラゴンズまつり』(名古屋・CBCテレビ)、および同日生放送の『ザ・ベストテン』(TBS系)を、「風邪」という名目で欠場しているが、これは、実際には、Winkが急激に売れたことによる、「殺人的なスケジュール」を伴った環境の激変に耐えかねて、失踪したものであった。この日の朝、「隣の部屋」の相田翔子に、「本当にごめんね」と書いた置手紙を残し、当時の茨城県鹿島郡大洋村(現・鉾田市)にあった自家所有の山小屋に隠れ、当日か翌日、失踪から戻ったという。この失踪は、メディアに報じられることもなく、隠し通されていた。
なお失踪当時は、同年3月3日から始まっていたWinkの地方キャンペーン期間中であり、この月の「殺人的なスケジュール」とは、具体的には以下のようなものであった。
※ 注記が無いものは『ORICON WEEKLY』1989年3月6日号~同年4月3日号所載の「STAR SCHEDULE」による。
この頃のWinkは、「休みなんて、1カ月に1日あるかないか。6時間も寝れれば大満足という毎日。」と言われていたが、上記の通り、実際に休日が皆無の中で、アルバム『Especially For You』レコーディングの傍ら、地方キャンペーンで日本各地を巡りつつ、時には東京と地方を往復して、『ザ・ベストテン』や『歌のトップテン』、『ミュージックステーション』といった音楽番組等に出演するなどのスケジュールが組まれていた。Winkの人気が過熱していた時期における、地方キャンペーン中のこうした初めての「殺人的なスケジュール」を、当時の鈴木は耐えきることが出来なかった。
また、この年の8月2日にも、『パラダイスGoGo!!』生放送の直前に相田翔子と共に失踪し、伊香保温泉の旅館に泊まったことがある。
上掲したWinkのスケジュールの一覧表にある通り、彼女たちは、鈴木の失踪から4日後である1989年3月27日から、30日にかけての4日間、グアム滞在のスケジュールを持ち、実際に滞在していて、これが同年におけるWinkの唯一の同地滞在になっているが、鈴木はこの地で喫煙を覚えている。その約1ヶ月前である2月22日に喫煙が法的に許された20歳になっていたとはいえ、「アイドルにとって、煙草は男性スキャンダル以上にイメージを左右しかねない」 ものであった。しかしながら、グアムにおける、多忙からの解放感の中、「忙しさからの反発」によって煙草に手を伸ばしたという。
Wink時代には、喫煙を止めるよう所属事務所の社長から叱責されつつも、マネージャーや懇意にしているスタイリストらの協力を得つつ、隠れて喫煙を続けた旨を鈴木は語る。失踪事件直後に、彼女はこうしたかたちで「忙しさからの反発」に対する折り合いをつけ、以後、先述の通り度々病に臥すことや相田翔子と共に伊香保温泉まで逃げたことはあったものの、1996年の活動停止までWinkとしての活動を全うし、その後も芸能活動を継続してゆく。
なお、Wink時代に隠れて喫煙することに慣れてしまっていたため、人前で煙草を吸えるようになったのは30歳を過ぎてからである旨を鈴木は述べている。喫煙を隠さなくなった30代においては、鈴木の出演したテレビドラマの中に、彼女の喫煙シーンを含むものもある。
★Wink時代
★ネバーランド在籍期
★Wink時代
★オレガ在籍期
★Wink時代(鈴木のソロ曲)
★エグゼ在籍期
★Wink結成前
★Wink時代(鈴木の単独出演のみ)
★マンリープロモーション、尾木エージェンシー、ネバーランド在籍期
★オレガ在籍期
★エグゼ在籍期
★センス・プロダクション在籍期
★Wink時代(鈴木の単独出演のみ)
★ネバーランド在籍期
★オレガ在籍期
★Wink時代(鈴木の単独出演のみ)
★マンリープロモーション、尾木エージェンシー、ネバーランド在籍期(2000年以降は省略)
★オレガ在籍期(「来歴」の節の記述を裏付けるもののほか、特筆すべきもののみを抄録)
★エグゼ在籍期(「来歴」の節の記述を裏付けるもののほか、特筆すべきもののみを抄録)
★センス・プロダクション、TOffice、縁劇人在籍期
★Wink時代(鈴木の単独出演のみ)
★エグゼ在籍期
★Wink時代(鈴木の単独出演のみ)
★マンリープロモーション、尾木エージェンシー、ネバーランド在籍期
★オレガ在籍期
★エグゼ在籍期
★エグゼ在籍期
★エグゼ在籍期
★Wink時代(鈴木の単独出演のみ)
★マンリープロモーション、尾木エージェンシー、ネバーランド在籍期
★オレガ在籍期
★エグゼ在籍期
★センス・プロダクション、TOffice、縁劇人在籍期
★マンリープロモーション、尾木エージェンシー、ネバーランド在籍期
★オレガ在籍期
★エグゼ在籍期
★エグゼ在籍期
★オレガ在籍期
★エグゼ在籍期