(もりれいこ)
森 麗子(もり れいこ、1921年3月6日 - )は、日本の教育者、生物学者、手芸家、詩人。
旧姓は萩原(はぎわら)。書籍などで森 れい子(もり れいこ)との名義を用いることもある。
静岡県森町高等女学校、静岡高等学校、文化服装学院での勤務を経て、ガブロム工房主宰などを歴任した。
静岡県出身の手芸家である。旧制高等女学校や旧制高等学校の教員を経て、結婚を機に手芸家として活動する。エドナ・マーチンに師事したのち、さまざまな技法を駆使して糸で絵を描く「ファブリックピクチャー」を確立し、日本における第一人者として知られている。ガブロム工房の主宰としても活動し、個展だけでなく工房展なども開催した。旧制の静岡県森町高等女学校や静岡高等学校で教鞭を執り、戦後は文化服装学院において後進を育てた。
1921年(大正10年)3月6日、静岡県静岡市に生まれた。東京府により設置・運営される東京府立第三高等女学校に進学し、1938年(昭和13年)に卒業した。さらに国が設置・運営する東京女子高等師範学校に進学するも、太平洋戦争勃発にともない1941年(昭和16年)に繰上卒業となった。
1942年(昭和17年)4月より、静岡県周智郡の森町により設置・運営される静岡県森町高等女学校に勤務した。この静岡県森町高等女学校には1年間勤めていた。
1943年(昭和18年)4月より、国が設置・運営する静岡高等学校に採用され、生物学研究室に所属した。ところが1945年(昭和20年)6月の静岡大空襲に罹災し、家財や研究資料などを失った。なお、それと並行して他の教育・研究機関においても教鞭を執っていた。同名の財団法人により設置・運営されていた静岡女子薬学専門学校においては、化学を講じていた。太平洋戦争終結後の1945年(昭和20年)12月に静岡高等学校を退職する。
1945年(昭和20年)12月、工学者の森芳郎と結婚した。それにともない、東京都に転居した。芳郎からの勧めもあり、結婚後の仕事について模索する。その結果、糸を使った「ファブリックピクチャー」に取り組むようになる。1967年(昭和42年)、並木学園により設置・運営される文化服装学院にて、服飾科から手芸科を分離独立させることになったことから、そこに招かれ刺繍、染色、プリントなど創作手芸を4年にわたって指導した。文化服装学院が夏休みを迎えると、スウェーデン王国に渡り、スウェーデン王立美術院教授のエドナ・マーチンに師事した。また、同国においてフレミッシュ織についても学んだ。
1971年(昭和46年)、ガブロム工房を設立し主宰となる。後進の育成にも力を注ぎ、のちに「ボードウィービング」を考案する山野井佳子らを輩出した。なお、1970年(昭和45年)頃より自身の作品を発表するようになり、1973年(昭和48年)には初の個展を開いている。以降は個展や工房展などを度々開くようになる。自らの作品をまとめた書籍も多数上梓している。
染め、刺し、織り、アップリケ、といったさまざまな技法を駆使した作品を発表しており、独自の「ファブリックピクチャー」を展開することで知られている。針を筆に、糸を絵の具にそれぞれ見立て、布の上にあたかも絵画のように図案を描いていく手法であり、いわゆるニードルアートに分類されるものである。
作品集を多数上梓しているが、ファブリックピクチャーの作品のみを掲載するのではなく、それに自作の詩を添えている。そのため詩人としての側面も持つ。
麗子の生家である萩原家は、10代続いた旧家であった。夫の森芳郎は工学者であり、東京大学工学部教授などを歴任した。