(ひみこ)
卑弥呼(読みは、ひみこ/ひめこ等諸説有り、旧字体:卑彌呼、建寧3年/170年頃 - 正始9年/248年)は、『魏志倭人伝』等の古代中国の史書に記されている「倭国の女王」と称された人物。日本の古代の歴史書である『古事記』『日本書紀』(記紀)に卑弥呼の記述はなく、考古学上も実在した物証が提示されていないが、西晋の官僚である陳寿が書いた『魏志倭人伝』に記述が見られる。著者の陳寿は日本に来た記録はないため伝聞により当時の日本に関して記述したと考えられ、それによれば、倭人の国は多くの男王が統治していた小国があり、2世紀後半に小国同士が抗争したために倭人の国は大いに乱れたため(倭国大乱)、卑弥呼を擁立した連合国家的組織をつくり安定したとある。卑弥呼は鬼道に仕え、よく大衆を惑わし、その姿を見せず、また歳長大で夫がおらず、政治は男弟の補佐によって行なわれたとも記されている。諱も不明で、239年に三国時代の魏から与えられた封号は親魏倭王。247年に邪馬台国が南に位置する狗奴国と交戦した際には、魏が詔書と黄幢を贈り励ましている。
『魏志倭人伝』によると卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。また、卑弥呼は邪馬台国の王というのは間違いという説がある。魏志倭人伝で「輒灼骨而卜、以占吉凶」(骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う)とあるように卜術をよく行う巫女(シャーマン)であり、儒教の反迷信(鬼神信仰)的視点から「鬼道」と記された可能性が高い。
本人は人前に姿を現さず、弟だけにしか姿を見せなかった。既に年長大であり、夫はいない(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食の給仕や伝言を伝えるなどするとともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。
卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当し、約30m)の範囲に多数の塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人)。
『三國志』(三国志)の卷四 魏書四 三少帝紀第四には、正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とある。
以下の3つの中華正史にも記事はあるが、いずれも倭国の歴史をふりかえるという文脈での記述であり、史料としての価値はない。
『三国志』魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』東夷傳)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國)、『梁書』諸夷伝では「卑彌呼」、『三国史記』新羅本紀では「卑彌乎」、『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」と表記されている。
一説には、差別意識ゆえ魏の史官が他国の地名、人名に蔑字を使って表記したため、この様な表記となっている。なお、同じく倭人に関する記録であった「面土国」や「壱与」などそのように当たらないケースもあるため、表記に使われる文字の意味の良し悪しは規則ではなく単純に史官個人の思想差によるものだったかもしれない。
また、他の一説には古代日本語を聞いた当時の者が、それに最も近い自国語の発音を当てた為に、また(中国から見て)単に外来語であることを表す目印として先頭の文字を特別なものとしているというものがある。これは現代日本語でのカタカナの使用や英語での固有名詞の表記、ドイツ語での名詞の表記に似た方法である。
現代日本語では一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明である。
など諸説あるが、その多くが太陽信仰との関連した名前であるとする。
一方、中国語発音を考慮する(呼にコという発音はない)と、当時の中国が異民族の音を記す時、「呼」は「wo」をあらわす例があり(匈奴語の記述例など)、卑弥呼は「ピミウォ」だったのではないかとする説もある。
また、中国史書に登場する倭の王の名がいづれも「呼」で終わることから、呉音による発音で、「卑」はヒ、「弥(彌)」の作り「爾」はニ、「呼」は作りの「乎」(三国史記では乎を用いている)はヲと発音することから、「卑弥呼」は「ヒニヲ」と読み、転訛を考慮し、「ヒノオオ」「火の王」であるという新説もある。
台湾人の学者によると古音では「ピェッ ミアー ハッ」であるという。
卑弥呼が登場する史書には、出身地に関する記述はない。福岡県糸島市の平原遺跡から八咫の鏡と同じ直径の大型内行花文鏡5枚を始め大量の玉類や装身具が出土したことや、『魏志倭人伝』における伊都国の重要な役割から、卑弥呼は伊都国に繋がる系統の巫女であった可能性がある(#主な比定古墳も参照)。上田宏範は「「皆女王国を統属す」と読めば、立場は逆になり歴代の王権はさらに強力だったと考えられる」としている。高島忠平は、卑弥呼はヤマト王権の大王と同様に、邪馬台国ではなく出身地に葬られたとし、平原遺跡が卑弥呼の墓である可能性が高いとして、伊都国の出身である可能性を示した。
寺沢薫は卑弥呼が「夫婿なし」として、夫をもたなかったことは神聖性を保持するためだけではなく、女王の夫と子供が王位継承に関わることを回避するためであり、裏を返せばこの時代に部族的国家王たちの間で子に王位を世襲させる継承がすでにあった可能性を指摘している。
また寺澤は弥生時代の北部九州の王族の墓を分析した経験から、それまでの部族的国家であれば、弟は本来、男系王統の王位につくべき人物で、姉の卑弥呼は弟の王権を保証する国家的祭祀を執り行う女性最高祭司(祭主)だったのではないかと述べている。またこの姉と弟はある部族的国家の王統の生まれであるとした。
魏志倭人伝では、卑弥呼の死の前後に関し以下の様に記述されている。
この記述は、247年(正始8年)に邪馬台国からの使いが狗奴国との紛争を報告したことに発する一連の記述である。卑弥呼の死については年の記載はなく、その後も年の記載がないまま、1年に起こったとは考えにくい量の記述があるため、複数年にわたる記述である可能性が高いが、卑弥呼の死が247年か248年か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。また247年(正始8年)の記述は、240年(正始元年)に梯儁が来てから以降の倭の出来事を伝えたものとすれば、卑弥呼の死も240年から246年ごろに起きた可能性が高い。
「以死」の訓読についても諸説ある。通説では、「以」に深い意味はないとするか、「死スルヲ以テ」つまり「死んだので」墓が造られた、あるいは、「スデニ死ス」と読み、直前に書かれている「拜假難升米 爲檄告諭之」(難升米が詔書・黄幢を受け取り檄で告諭した)の時点で卑弥呼はすでに死んでいた、と解釈する。この場合、死因は不明である。一方、「ヨッテ死ス」つまり「だから死んだ」と読んだ場合、この前に書かれている、卑弥弓呼との不和、狗奴国との紛争もしくは難升米の告諭が死の原因ということになる。そのため、狗奴国の男子王の卑弥弓呼に卑弥呼は殺されたと考える説もある。
また南宋の鄭樵が編纂した『通志』の「四夷伝(194巻4巻)」において、現行の通行本魏志倭人伝に「卑弥呼以死」とある箇所が、「卑弥呼已死」と表記されていることが判明した 。これは現行倭人伝の成立前後の類書の編者である鄭樵が、倭人伝本文を「正始八年時点で卑弥呼がすでに死んでいた」と解釈していたことの直接的な証左である。
天文学者の斎藤国治は、248年9月5日朝(日本時間。世界時では9月4日)に北部九州で皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。さらに、橘高章と安本美典は、247年3月24日夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、247年の日食が原因で魔力が衰えたと卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり壹与が即位したと唱えた。これらの説は、邪馬台国北九州説や卑弥呼・天照大神説と密接に結びついている(ただし不可分ではない)。
しかし、現在の正確な計算によると皆既日食は日本付近において、247年の日食が朝鮮半島南岸から対馬付近まで、248年の日食が隠岐付近より能登半島から福島へ抜ける地域で観測されたと考えられ、いずれの日食も邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり、部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。
卑弥呼の行った「鬼道」とはシャーマニズムのことであろうと推測されており、未開社会においては王がシャーマンの役割を兼務していた可能性もあるが身分制が確立してくるとシャーマンと祭司は分化し、祭司は上層に、シャーマンは下層になることが多い。また部族社会では祭司の家系は部族の創始者、すなわち世界=社会の創造者に由来し、祭司=王であることも多いという。
琉球研究の泰斗である鳥越憲三郎は、卑弥呼と男弟の統治形態を見て卑弥呼の統治形態を琉球国の聞耳大君と琉球国王のような祭政二重主権の統治形態であると判断した。これを見た漢人がその独特な統治形態を理解できずに「女王国」だと報告したのだという。これは古代社会に広くみられるヒメ・ヒコ制の男女二重主権であると思われる。
ヒメ・ヒコ制の男女二重主権のヒメは奈良時代まで続いたと見られ、ヒコは5、6世紀に父系的政治社会に転換したとみられる。ヒメ・ヒコ制の例は神武紀の宇佐の兎狭津彦・兎狭津媛や景行紀十八年の阿蘇国の阿蘇都彦・阿蘇都媛、『播磨国風土記』の吉備比売、吉備比古、景行紀十二年の神夏磯媛など九州に多く見られ、直木孝次郎は神功皇后もその一例だろうと述べている。
先述のとおり、寺沢薫も弥生時代の北部九州の王族の墓を分析した経験から、それまでの部族的国家であれば、弟は本来、男系王統の王位につくべき人物で、姉の卑弥呼は弟の王権を保証する国家的祭祀を執り行う女性最高祭司(祭主)だったのではないかと述べている。
また伊勢神宮には未婚の皇女が天皇の代替わりごとに派遣されて祭祀をする斎宮の制があったが、これも古代以来のヒメ・ヒコ制の伝統であると言われている。なお戦後の神宮祭主も全て皇族出身の女性が就任している。
ただし、記紀の伝えるように世襲王権である天皇家と血縁よりも呪術力を重視していた卑弥呼では王権の次元が異なることには留意すべきである。
卑弥呼の墓がどこにあるのかについては、様々な説があり、今も不明である。
卑弥呼は径百余歩の墓に葬られたとする。一歩の単位については、周代では約1.35メートル、秦・漢代では約1.38メートル、魏代では約1.44メートルと言われ(長里)、墓の径は約144メートルとなる。一方倭人伝の旅程記事などから倭韓地方では長里とは別の単位(短里「周髀算経・一寸千里法の一里(=約77m)」)を使用していると考えられ、一歩を0.3メートル、墓の径は30メートル前後とする。。
「径」という表現から一応円墳とされるが、弥生時代の築造から楕円墳や方墳である可能性もある。なお、卑弥呼がヤマト王権の女王であるとする近畿説によって前方後円墳をその冢と見る説もあるが、「径」の表記から異論が多い。
「大作冢」の大は作に掛かるので「大に作る」と訳され、大に作るとは大きな冢を作るではなく多数の冢の意味であるので、「徑百余歩 徇葬者奴婢百余人」は径百余歩の範囲に殉葬者や奴婢が百余人、つまり卑弥呼の死によって多くの殉葬者が出て径百余歩の範囲に100人分ぐらいの冢が作られたと読み、「卑弥呼以死 大作冢 徑百余歩 徇葬者奴婢百余人」の記述は卑弥呼の墳墓に付いての記述ではなく、卑弥呼の死によって引き起こされた事の記述であるとの意見もある。この場合「卑弥呼は既に死んでいたので、径100歩余りの範囲に徇葬者の奴婢が100人余りと多くの冢が作られた。」と訳される。
卑弥呼の死んだ時期は西暦247年であり、一般に弥生時代の終末期、あるいは弥生時代から古墳時代への移行期とされる。日本書紀による近畿ヤマト王権の年代観では、崇神天皇治世の少し前となる。
魏志では殉葬者は「奴婢百餘人」と記述されており、卑弥呼の墓は、古墳に埴輪が導入される以前だったと考えられる。『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、これを埴輪の起源とするためである。ただし森将軍塚古墳など墳丘に埴輪棺を埋葬した例が有り、殉葬の可能性も指摘されている。また主体部については「有棺無槨」とされており、槨の無い石棺墓か木棺墓、甕棺墓と考えられる。
邪馬台国が畿内にあるとすれば卑弥呼の墓は初期古墳の可能性があり、箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)に比定する説がある。四国説では徳島市国府町にある八倉比売神社を、九州説では平原遺跡の王墓(弥生墳丘墓) や九州最大・最古級の石塚山古墳、祇園山古墳(弥生墳丘墓)などを卑弥呼の墓とする説がある。
卑弥呼が『古事記』や『日本書紀』に書かれているヤマト王権の誰にあたるかが、江戸時代から議論されているが、そもそもヤマト王権の誰かであるという確証もなく、別の王朝だった可能性もある。また一方、北史(隋書)における「倭國」についての記述で、“居(都)於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也”「都は邪靡堆にあるが、魏志に則れば、いわゆる邪馬臺者である。」とあり、基本的には連続性のあるヤマト王権の誰かであるだろうとして『日本書紀』の編纂時から推定がなされている。卑弥呼が共立されたのは後漢書から西暦146年~189年の末頃で、卑弥呼の死去年は魏志倭人伝などから西暦247~248年頃と推定されているので、卑弥呼の倭国統治時期は2世紀の終わり頃から3世紀前半の60年ほどの期間である。
中華の史書に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記憶に残るはずで、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオミカミ)しかないとする説。白鳥庫吉、和辻哲郎らに始まる。この場合、台与は天忍穂耳尊の后、万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)とするのが普通であるが、異説もあり、石原洋三郎の説では山幸彦の后豊玉姫とする。
卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命=天照大神の説もある。しかし『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、卑弥呼と神功皇后が同時代の人物と記述している(実際は誤り)。また百済の王は古尓王(234 - 286)、その子の責稽王(生年未詳 - 298年)などの部分はほぼ日本書紀の記述どおりである。
また卑弥呼が魏の国に対して軍の派遣を要請した行為を恥じてそのために日本書紀では詳細が記述されなかったと考える説も存在する。
アマテラスの別名は「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。
卑弥呼の没したとされる頃の247年3月24日と248年9月5日の2回、北部九州で皆既日食がおきた可能性があることが天文学上の計算より明らかになっており(大和でも日食は観測されたが北九州ほどはっきりとは見られなかったとされる)、記紀神話に見る天岩戸にアマテラスが隠れたという記事(岩戸隠れ)に相当するのではないかという見解もある。ただし、過去の日食を算定した従来の天文学的計算が正しい答えを導いていたかについては近年異論も提出されている。
安本美典は、天皇の平均在位年数などから推定すると、卑弥呼が生きていた時代とアマテラスが生きていた時代が重なるという。また卑弥呼には弟がおり人々に託宣を伝える役を担っていたが、アマテラスにも弟スサノオがおり共通点が見出せるとしている(一方スサノオをアマテラスとの確執から、邪馬台国と敵対していた狗奴国王に比定する説もある)。ただし安本の計算する平均在位年数は生物学的に無理があるほど短く、計算にあたって引用した数値の選択にも疑問があり、また多くの古代氏族に伝わる系図の世代数を無視したものとの指摘がある。
魏志倭人伝には卑弥呼が死去した後、男王が立ったが治まらず、壹與が女王になってようやく治まったとある。この卑弥呼の後継者である壹與(臺與)はアマテラスの息子アメノオシホミミの妃となったヨロヅハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師比売)に比定できるとする。つまり卑弥呼の死後男子の王(息子か?)が即位したが治まらず、その妃が中継ぎとして即位したと考えられる。これは後のヤマト王権で女性が即位する時と同じ状況である。ちなみにヨロヅハタトヨアキツシヒメは伊勢神宮の内宮の三神の一柱であり(もう一柱はアマテラス)、単なる息子の妃では考えられない程の高位の神である。
安本は、卑弥呼がアマテラスだとすれば、邪馬台国は天(『日本書紀』)または高天原(『古事記』)ということになり、九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動してヤマト王権になったとする(邪馬台国東遷説)。それを伝えたのが記紀の神武東征であるとしている。
また、卑弥呼と天照大御神の登場の境遇が類似しているという説もある。卑弥呼は倭国大乱という激しい争いの後、共立されて女王となったが、一方で、天照大御神も国産みをしたイザナギ・イザナミの激しい争いの後、イザナギの「禊払え」により、高天原の支配者として登場する。『日本書紀』の本文ではイザナギ・イザナミの協力によって、日の神「大日孁貴」が誕生している。
魏志では、邪馬台国の支配地域は『女王國以北』・『周旋可五千餘里』と記述されており、短里説で換算した場合、概ね、九州北部地域が支配地域と考えられる。そのため、「熊襲・出雲国」は支配地域外と考えられ、卑弥呼の時代背景としては天岩戸以前の時代背景となり、卑弥呼は天照大御神と人間関係が類似する(弟がおり、嫁がず)。新唐書や宋史においても、天照大御神は筑紫城(九州)に居ると記述されている。
能登比咩神社の主祭神、能登比咩(のとひめ)を卑弥呼とする説。能登比咩は社伝によると大己貴命、少彦名命と同時期の神である。能坂利雄がその著『北陸古代王朝の謎』で唱えた説だが、台与が誰かについては説明していない。
『海部氏勘注系図』、『先代旧事本紀』尾張氏系譜に記される、彦火明六世孫、宇那比姫命(うなびひめ)を卑弥呼とする説。この人物は別名を大倭姫(おおやまとひめ)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海孁姫命(おおあまひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)ともある。この日女命を卑弥呼と音訳したとする。またこの説では、卑弥呼の後に王位に就いたとされる台与(とよ)を、系図の中で、宇那比姫命の二世代後に記される、天豊姫(あまとよひめ)とする。両系図の伝承を重んずる限り、宇那比姫はほぼ孝安天皇と同世代の人であり、孝安天皇は天足彦国押人命の実弟で、宇那比媛と孝安天皇は義理の姉弟という関係である。このことから魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼の男弟」を孝安天皇のことだと解釈することもできる。
孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫命または倭迹迹姫命、『古事記』の夜麻登登母母曾毘賣命。この説の場合、台与は崇神天皇皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめみのこと)に比定される。
『日本書紀』により倭迹迹日百襲姫命の墓として築造したと伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡の中にある。同時代の他の古墳に比較して規模が隔絶しており、また日本各地に類似した古墳が存在し、出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器が見出せるなど、以後の古墳の標準になったと考えられる重要な古墳である。当古墳の築造により古墳時代が開始されたとする向きが多い。
『日本書紀』には、倭迹迹日百襲姫命についての三輪山の神との神婚伝説や、前記の箸墓が「日也人作、夜也神作(日中は人がつくり、夜は神がつくった)」という説話が記述されており、神秘的な存在として意識されている。また『日本書紀』では、倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇に神意を伝える巫女の役割を果たしたとしており、これも「魏志倭人伝」中の「倭の女王に男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)という、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命と男弟=崇神天皇との関係に類似する。もっとも、倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の親戚にあたるが、姉ではない。そこで、『魏志倭人伝』は崇神天皇と百襲姫命との関係を間違って記述したのだという説(西川寿勝などが提唱)が存在する。さらに魏志倭人伝の「卑彌呼以て死す。(中略)徇葬する者、奴婢百余人。」と、日本書紀の「百襲」という表記の間になんらかの関連性を指摘する向きもある。
従来、上記の箸墓古墳の築造年代は古墳分類からは3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼の時代とは合わないとされてきた。しかし、年輪年代学や放射性炭素年代測定による科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代が従来より早められた。箸墓古墳の築造年代についても、卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説があるが、研究者により議論になっている。
『日本書紀』によれば、倭迹迹日百襲姫命が亡くなった後、崇神天皇は群臣に「今は反いていた者たちはことごとく服した。畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。四道の将軍たちは今すぐ出発せよ」という詔を発し、四道将軍に各地方の敵を平定させており、国中に争いが起きたことは卑弥呼の死後に起こったという戦乱を思わせる。記紀は律令国家時代の編纂なので、天皇より上の権威を認めなかったが、上述のように箸墓古墳を倭迹迹日百襲姫命の墓だと仮定したら、崇神天皇陵より巨大で天皇よりも権威をもっていたことになり矛盾がある。
現在では畿内説論者でも、卑弥呼を具体的に記紀の登場人物にあてはめようとする説は多くないが、記紀の登場人物にあてはめる場合には倭迹迹日百襲姫命とされることがもっとも多い。
文献的にこの説の有利な点は、『古事記』の崩年干支から崇神天皇崩御の戊寅年については258年とみる説が少なくなく、この場合、卑弥呼は記紀でいう崇神天皇と同時代となるということが挙げられる。
熊襲梟帥が景行天皇の時代だとすると「男王」は在位期間が短かったので、卑弥呼は早くても垂仁天皇、遅くても景行天皇の頃となる。(台与については不明)
戦前の代表的な東洋史学者である内藤湖南は『卑弥呼考』で垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)を卑弥呼に比定した。この説の支持者には橘良平、坂田隆などがいるが、倭迹迹日百襲姫命説と比べると支持者は極めて少ない。垂仁天皇の皇女なので世代的には景行天皇の時代の人物ということになる。台与については言及が無い。
『日本国号考』の中で新井白石が邪馬台女王国を筑後国山門郡に比定したのを承けて、星野悟は、邪馬台連合国の女王卑弥呼は山門(ヤマト)を本拠とする土蜘蛛(土着の豪族)女王田油津媛(たぶらつひめ)の先々代女王にあたるとした。『日本書紀』によると田油津媛は仲哀天皇・神功皇后による西暦366年頃の九州遠征の際に成敗されたという。福岡県みやま市の老松神社には、田油津媛を葬ったとされる蜘蛛塚とよばれる古墳が残されている。若井敏明の説でも同じく田油津媛は邪馬台国(九州女王国)の最後の女王であり、神功皇后(畿内ヤマト政権)によって田油津媛が誅殺されたというのがすなわち「邪馬台国の滅亡」であるとする。(台与については不明)
『日本書紀』では田油津媛を土蜘蛛だというのみで熊襲とはしておらず、後述の熊襲の女酋説とは区別される。中国史料では卑弥呼の死去年は西暦247~248年頃である。
九州王朝説を唱えた古田武彦は、『筑後風土記逸文』に記されている筑紫君(筑紫国造)の祖「甕依姫」(みかよりひめ)が「卑弥呼(ひみか)」のことである可能性が高いと主張している。また「壹與(ゐよ)」(「臺與」)は、中国風の名「(倭)與」を名乗った最初の倭王であると主張しているが、それに該当する人物は日本側史料に登場してはいない(つまり台与については不明ということである)。久米邦武もまた甕依姫に触れてはいないが『住吉社は委奴の祖神』の中で卑弥呼を筑紫国造とした。『先代旧事本紀』国造本紀によれば筑紫国造は成務天皇の時、孝元天皇皇子大彦命の5世孫、田道命が任命されたという。甕依姫は筑紫君の祖とあるものの逸文の文面上ではすでに筑紫君氏は存在していることになっているので田道命からあまり遡った祖先とは考えられず、甕依姫はどんなに古くても田道命の妻か娘(もしくはせいぜい母親ぐらい)と思われる。仮に甕依姫を田道命の娘と同世代だとすると仲哀天皇や神功皇后の時代に相当し、田道命の妻と同世代だとすると成務天皇と同時代に相当する。
『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、卑弥呼と神功皇后が同時代の人物と記述している。実際に神功皇后は200年に夫である仲哀天皇を失ってからは60年以上ずっと独身である。さらに弟もいた。また倭国大乱に当たる熊襲の戦いがあり、この戦いの最中に仲哀天皇は崩御した。一説によるとこれは熊襲との戦いでの矢の傷が元であるという。さらには日本書紀で出てくる百済の王の古尓王(234 - 286)も日本書紀が示す時期とややずれがあるものの合致している。これを否定する説が井上光貞ほか一部から指摘されている。日本書紀の神功皇后の百済関係の枕流王(在位:384年 - 385年)の記述の部分が卑弥呼よりも120年(干支2回り)あとの時代のものであるためにそのような主張がなされている。しかし百済の王は古尓王、その子の責稽王(生年未詳 - 298年)などの部分はほぼ『日本書紀』の記述どおりであり、子孫の枕流王の部分は切り離して考えるべきだとする説もある。さらに肖古王と近肖古王の名前は似ていて神功皇后元年の干支も201年と321年は同じものなので日本書紀の編纂者が誤って近肖古王とその後の系図を当ててしまった可能性も大いにある。実際に日本書紀でも出てくる百済の王の名前は肖古王である。故にいきなりここで120年の時代誤差が生まれたと考えられる。
また古事記では応神天皇の時に照古王が肖古王として貢物を献上する。現在でも、倭迹迹日百襲姫命説ほどではないがそれに次いで支持者が多い。また九州説論者でも神功皇后説を採る論者が何名もいる。またこの説の場合、九州各地に伝説の残る与止姫が神功皇后の妹虚空津比売と同一という伝承もあることから、この人物を台与に同定する。古田史学の会の代表の古賀達也も、台与を「壱与」とするが同じ説であり「与止姫」のことだとしている。
本居宣長、鶴峰戊申らが唱えた説。本居宣長、鶴峰戊申の説は卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である。本居宣長は邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。また、宣長は『日本書紀』の「神代巻」に見える火之戸幡姫児千々姫命(ヒノトバタヒメコチヂヒメノミコト)、あるいは萬幡姫児玉依姫命(ヨロツハタヒメコタマヨリヒメノミコト)等の例から、貴人の女性を姫児(ヒメコ)と呼称することがあり、神功皇后も同じように葛城高額姫児気長足姫(カヅラキタカヌカヒメコオキナガタラシヒメ)すなわち姫児(ヒメコ)と呼ばれたのではないかと憶測している。那珂通世も卑弥呼は鹿児島県姫木にいた熊襲の女酋であり朝廷や神功皇后とは無関係とする。神功皇后の実在を前提とした上で、その名を騙ったのだから、卑弥呼に該当する熊襲の女酋は当然神功皇后の同時代人として想定されている。当然、台与については不明である。
安藤輝国はその著『邪馬台国と豊王国』の中で卑弥呼は応神天皇の一族であると唱えた。また、鳥越憲三郎はその著『古事記は偽書か』の中で物部氏の一族であると唱えた。この両説の、両方の条件に該当する者を系譜から探すと
の3人の候補が見つかる。この3人は応神天皇の皇女である。また3人の生母は記紀では和邇氏の娘ということになっているが『先代旧事本紀』によると物部氏の娘となっている。これら3人の女性より下の世代で名前の一部にイヨまたはトヨがつく女性は飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)がいる。
先代旧事本紀にある阿曇氏の祖の天造日女が卑弥呼という説。卑弥呼が阿曇氏の場合、宗女台与はトヨと読む場合は海神の娘とされるトヨタマヒメ。タイヨと読む場合は妹のタマヨリビメが当てはまる。
下記の他、「卑弥呼」をモチーフに創作された「女王ヒミカ」および「邪馬台国」をモチーフに創作された「邪魔大王国」が登場する「鋼鉄ジーグ」(1975年、NET(後のテレビ朝日)、声優:高橋和枝)という作品も存在。